「#41[質問座談会] 慈悲蒔けば愁苦の憂い遁れ去る」の動画を復習しました

おはようございます。


前後しますが先日の#42の前の動画のことを書きます。質問座座ということで書かなくてもいいかぁ・・・と思っちゃって書かないでいました。


心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。


「#41[質問座談会] 慈悲蒔けば愁苦の憂い遁れ去る」の動画を再度みました。


仏教と世界ではメジャーな教えですが、本当の仏教、お釈迦様が説かれた仏教を教えはまったく説かれていないようです。この世でその教えに会い、
無明の闇が晴れて今生は絶対の幸福、来世は極楽浄土間違いなしと信心決定することを
  多少にも値い難し
  何千回、生まれ変わっても会うことが難しい
親鸞聖人は驚き、喜びの思いを伝えています。

この「値い難し」、以下の三つの関門があると説かれています。

①人界受生の門(人間に生まれたこと)
   人に生まれるというのは、百年に1回、海底から海面に浮かんでくる
   盲目の亀が、海に浮かんでいる亀の首が入る穴の開いている丸太に首
   を突っ込むぐらいに難しいことだと釈迦様は説かれています。
   
   しかもこの人間界でしか仏法を聴くことはできないとのことです

②値遇仏法の門(本当の仏教に出会えたこと)
   ヒマラヤ山のてっぺんから糸を投げ、地上の針の穴に糸が通ること
   ぐらいにあり得ない事だとお釈迦様は説いています。

③極楽の東門(信心決定、無明の闇が晴れること)
   本当の仏教を聴き、信心決定までの道を歩んでそこに到達したこと

①、②のあり得ない事が実現し、今、最後の最後の関門に向かっている。
今、この時、このチャンスに「無明の闇、晴れた」という一念を突破しなけ
ればならない。


  「善因善果  悪因悪果  自因自果」
と因果の道理を聞いて、
  「悪因悪果  自因自果」
ばかりにフォーカスしては道を誤ります。こんな私は救われないのでは・・
と思う必要は全くない。お釈迦様はそのような気持ちにさせるためにこれを説かれたのではない。
阿弥陀仏の本願は、そんな極悪人を救うとお約束されています。本当に極悪人なのか??人間レベルの善ではなく、仏様レベルの善(法鏡)で自分の姿を観て、
   その善には毒が混ざっていないか??
を観ていくことがこの信心決定する道には必要なのでお釈迦様は説かれたのです。阿弥陀仏が仰る人間の本当の姿(極悪人)と自分自身が思っている自分の姿が合わないと救われないのです。

   人間レベルの善でも善は善
なのです。
   「善因善果  自因自果」
なのです。

だから全力で善をして仏様の言われるその善に含まれる毒を観ていくことをしていくと、その自因自果で幸せになります。

(間違ってはいけないのは、今生でこの幸せになるために善をするのではない。あくまでも目的は信心決定するための善である。その幸せは信心決定して絶対の幸福には至らないまでも、おまけとしてしあわせになっていくということ)

   「慈悲蒔けば愁苦の憂い遁れ去る」

じゃんじゃん慈悲を善を蒔いていきましょう。

 

 

 

その辺を以下の私が教えを受けているサイトではわかりやすく教えています。
良ければ以下の私が学んでいるサイトを見てくださいね。
松井二郎さん、ありがとう!!

https://wrlighte.com/index.html

ではまたね~!