おはようございます。
昨夜は疲れから自己中心的な思いを起こしてしまい、その罪が因となってすぐに結果として現れました。早くその思いは罪だと気付くセンサーを持たないといけないまぁと思いました。
心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。
「#43 仏教の極み 本願成就文〈9〉浄土へのきっぷは信心か念仏か」の動画を再度みました。
無明の闇
苦しいのに何故生きなければならないのか?
この苦しみである無明の闇を晴らして頂くことが仏教の目的
この無明の闇を晴らして頂き、「生まれてきてよかったぁ~」という身になることが仏教のゴール
この状態にさせていただくことが
「破闇満願」
誰にそのような身にしていただくのか?
阿弥陀仏が何としてもその身にしてやるぞとお建てくださったのが
「阿弥陀仏の本願」
その本願を受け取るとどうなるか?
仏の悟りは52段階ある。52段目の「仏覚」で仏の身となる
人間はその悟りの段階の0段目におり、1段目すら登れない存在
その人間が「阿弥陀仏の本願」を受け取ることにより、51段目の
「等覚(正定聚)」という身に0段から飛躍する。
「正定聚」とは正に定まった人たちという意味で、この世で死ぬと同時
に52段目の仏の悟りを得る、「仏覚」になることが定まった人とのこと
よって、私たちはこの世で二つの道に分かれる。
一つは、このまま死んで無間地獄に往き、永遠に等しい苦しみを受ける
もう一つは、「阿弥陀仏の本願」を受け取り、この世では「正定聚」と
なり絶対の幸福に生き、死んだら阿弥陀仏の極楽浄土へ往く
では0段の凡夫である私が51段まで飛躍できるのか?
宇宙の法則である「因果の道理」に合わないのではないか?
「果」 は、極楽往生
ではその 「因」とは??
阿弥陀仏の本願では、
「至心信楽」 「信楽」の身にしてあげるよ。「信楽」=「信心」
極楽往生の身にしてあげるよ
「乃至十念」 念仏を与えるよ
とある。
では、「信心」によって救われるのか?
「念仏」によって救われるのか?
現在でもこの二つで論争している。
しかしお釈迦様がこの「阿弥陀仏の本願」の内容を解説してくださった
「本願成就文」にこと答えが示されているそうです。
ここでその解説は次回となりました。
その辺を以下の私が教えを受けているサイトではわかりやすく教えています。
良ければ以下の私が学んでいるサイトを見てくださいね。
松井二郎さん、ありがとう!!
https://wrlighte.com/index.html
ではまたね~!