歎異抄について

おはようございます。

今朝は冷え込んでいますねぇ。この冬は暖冬と聞いて過ごしやすいのかと思いきや、暖かくなったり寒くなったりで反って体に堪えるように感じます。

皆さまもどうぞご自愛ください。

 

歎異抄親鸞聖人の教えを間違って説き広げる者がいることを嘆いて、親鸞聖人の本当の御教えはこうですよと正すために書かれた本です。

 

しかし皮肉はことに、その歎異抄の本を読んだ人の解説書が間違って解説され、今日では親鸞聖人の御教えをほとんどの人は正しく理解していません。これは大変な損失であり、残念なことです。

 

  「群盲象を撫ぜる」の譬えでお釈迦さまは教えられています。

視野の狭い者が多く集まり、銘々の観点から理解したことを述べ、結果として物事の本質が見失われている状態の喩え。

 

何事も内容を理解するためにはその物事の全体像を正しくつかんでおくことが大切と言われます。歎異抄を理解する場合も同じと教えられます。そして歎異抄の全体像を知るということは、親鸞聖人の御教えを知ること、さらに仏法の全体像を知ることと教えていただきました。その歎異抄の全体像について書かれているのが、書籍「歎異抄ってなんだろう?」の30,31ページ【歎異抄の全体像を理解する譬話】です。

【譬話】にあたる仏法の内容を私なりに(  )に書いてみました。

 

【1】すべての医師から見放された難病人がいました。

(すべての仏さまから見放され、苦しみの世界から抜け出せない者がいました。私たち全人類のことです)

【2】世界唯一の名医の存在を教える案内人が現れました。

(その私たちに「私は仏であるが、そなたたちの苦を抜いてやる力がない。そなたたちの苦しみを抜いて幸せにしてくださるたった一人の仏様がおられるから、その仏様のことを私(お釈迦さま)が紹介しよう」と、仏の悟りを得てからお亡くなりになる45年間私たちに説法をしてくださいました。)

【3】名医は、「難病人の苦悩の根元を突き止め、治せなければ命を捨てる」と、誓っていました。

(その仏様は、幸せになろうとしても絶えず悩み苦しみが現れ、幸せになれない心の病の根本原因を突き止め、何があっても崩れない大安心、大満足の幸せにできなければ命を捨てると誓われている)

【4】名医は、永い間、苦労を重ねて、遂に特効薬を完成されました。

(その仏は心の病を解決する特効薬である「南無阿弥陀仏」の六字の名号を完成された。

【5】特効薬を飲んで難病が全快した患者は大変に喜びました。

(特効薬である名号を聞き切って、名号を受取ると大安心、大満足の身になり、心の病が完治した。永遠に続く喜びの心に満たされた。)

【6】難病が完治した患者は、名医と案内人のご恩に深く感謝し、お礼を言わずにおれなくなりました。

(お礼の言葉「南無阿弥陀仏」を称えずにはおれなくなる)

 

( )内で簡単に譬えに合わせて全体像を書いてみました。

詳しくは書籍「歎異抄ってなんだろう」を読んでみてくださいね。

 

仏教で説かれる不安

こんばんわ。

仏教法話の復習のためにブログを書いています。何か参考になることがあれば幸いです。

 

私の人生には、不安がつきまとっています。この世は諸行無常で変わらないものはありません。だから失わないか、元気でいられるか不安です。それ以外にも何となく不安にかられます。

 

不安には二つあると教えていただきました。

煩悩から来る不安。諸行無常から来る不安かと思います。

もう一つ、無明の闇の不安

   何のために生きているのかなぁ?

   苦しくともなぜ生きなければならないのだろうか?

   でも死ぬのは恐ろしいよなぁ

   死ねばどうなるのだろうか?

 

仏教で無明の闇を教えていただく前は、二つの不安という考えはなく、ごっちゃになっていたのでしょう。

 

煩悩から来る不安は、この世で生きている間だけの不安。苦悩の枝葉。

無明の闇の不安は、永遠の生命のなかの多生の不安。苦悩の根元。

 

スケールが違います。無明の闇が晴れても煩悩から来る不安はなくならないけれども、その不安が不安のままで不安で無くなる無碍の一道に出られるということだと思います。煩悩から来る不安は問題にならなくなるということだと思います。

人間の苦しみの根本原因

おはようございます。

仏法を聞かせていただき、復習のために書いています。何か参考になることがあれば幸いです。

 

私はいつも不安を抱えています。嬉しいことはありますが、その喜びはいつの間にか消えていきます。変わらない幸せを感じることはありません。

 

私はもっとお金があれば幸せになれるのでは、元気に動ける体があれば幸せでいられる、得たい結果を得れば幸せになれるのではと考えていました。

 

仏教では人間は心に闇があるから苦しむ。この闇を「無明の闇」と言います。

無始よりこのかた「無明業障の恐ろしき病」に罹っていると言います。

 

人は未来が暗いと現在が暗くなる。

  この暗いとは、ハッキリしない、わからないという意味です。

  未来は暗いと不安になります。

 

すべての人間の100%確実な未来は「死」です。

その死後がどうなるかハッキリしないから常に不安が付きまといます。

その不安、苦しみを取り除いてくださり、永遠の幸せにしてくださる教えが仏教です

 

未来は明るいとハッキリすれば、現在も安心でき幸せになれます。

このような深い考えは人間には出てこないと思います。仏教の教えを聞かなければわかりません。

 

未来のことがハッキリすることがあるのか?と人間の世界では信じられませんが、

阿弥陀仏大慈悲で建ててくだされた本願で救ってくだされます。

仏さまは始まりのない過去から永遠に苦しみ続けるしかない私たちを見て、可哀そうだと大慈悲をかけて下されています。

  私たちの苦しみは、仏様の苦しみ

  私たちの喜びは、仏様の喜び

と言ってくださっています。仏さまが私たちに罰を与えて苦しませることはありません。

 

仏教の深い教えを聞き、永遠の生命の流れや私たちはどのような者かのかを知ると、上記の意味がよく分かっていただけると思います。仏法を聞き抜き、救われたいと思います。

人間の幸福

おはようございます。

仏教のお話を聞かせていただき、その復習のためにブログを書いています。何か参考になれば幸いです。

 

私たちは幸福になるために生きています。私たちの幸福とは五欲を満たすことであり、この五欲だけで生きている人がほとんどだと言われます。

 

五欲とは、

  ①食欲  食べたい、飲みたいと心

  ②財欲  お金が欲しい、物が欲しいという心

  ③色欲  男が女を求め、女が男を求める心

  ④名誉欲 褒められたい、認められたい、悪く言われたくない心

  ⑤睡眠欲 眠たい心、楽をしたい心

 

これらの欲の特徴は

  〇キリがない、

  〇幸せは続かない。

     もっともっとと膨れ上がり際限がない。持てばそれが当たり前に

     なり喜びでなくなる。

     人間の限りある時間、才能で限りないものを求める。

     無ければ無いで苦しみ、有れば有ったで苦しむ。

     この世の中は無常で変わらないものは何一つない。幸せも同じで続かない。

 

この欲は上を見るときりがない。

   いいなぁと妬み嫉む愚痴の心がでる。

あの人たちと比べればまだ幸せと下を見て幸福を感じようとする

   人の苦しみを見て喜ぶ幸福。慢の心がでる。

 

そして無常は一番激しく感じられるのが「死」である。

お金、財産、健康、家族、名誉とこれまで頼りとしていたすべてのものから見放される。何一つ持って行けない。

 

阿弥陀仏の本願をいただくと、

  このような無限の欲を持つままで幸せになれる

  そして無常の死が訪れても崩れない幸せになれる

 

仏教を聞かなければと思います。

  

後生の一大事の解決

おはようございます。

仏教のお話を聞かせていただき、復習でブログを書いています。何か参考になれば幸いです。

 

浄土真宗では毎日の朝夕と勤行(おつとめ)に正信偈を拝読します。その正信偈の冒頭の二行が、

  帰命無量寿如来 (親鸞阿弥陀仏に救われた)

  南無不可思議光 (親鸞阿弥陀仏に助けられた)

とあります。

 

救われた、助けられたとは「後生の一大事」を阿弥陀仏の本願に救われたということです。「後生の一大事」の解決とは、死後、地獄に堕ちる一大事を解決したということです。世間でも一大事という言葉は色々なことに使われますが、仏教では取り返しのつかない一番大きな問題を指します。

 

親鸞聖人は生きている現在、死後に起こることが解決したと仰っています。

人間、1年後のことすらどうなるのか分からないのに、死んでからのことが何故、ハッキリするのでしょうか?そんなことがあるのでしょうか?

 

親鸞聖人は阿弥陀仏の本願に救われ、死後、地獄へ落ちる身でありながら、極楽往生することがハッキリ知らされたと断言されています。

阿弥陀仏の本願のことを親鸞聖人は、

      超世の悲願

と表現されています。世を超えている、常識を超えている、人が想像もできない阿弥陀仏大慈悲のお力です。

 

どうしてこんな幸せに救われたのか?大宇宙に「阿弥陀仏の本願」という私たちを救う特効薬があっても、それを教えて下さる人がいなければ、親鸞、救われることはなかったと、仰っています。どなたが教えてくださったのでしょうか?

 

それはお釈迦さまです。釈迦一代の教えは阿弥陀仏の本願一つを説かれました。お釈迦さまは約2600年前の方でこの地球で唯一仏の悟りをひらかれた方です。「同じ仏と言えども私にはそなた達を救う力は無い。そなた達を救えるのは阿弥陀仏という仏の本願だけである。」と教えて下されました。

 

そしてこの2600年前のお釈迦さまの教えを今日までお伝えくだされた高僧の方々はおられなかったならば、この親鸞阿弥陀仏の本願に救われることはなかったと恩を讃えられておられます。

 

私はこの時代に、この日本に生まれ、日本語でお釈迦さまの教えを正確にお伝えくださる親鸞聖人の教えに出会うことが出来、そのお話を聞かせていただけて有難く思います。

 

 

聖道仏教と浄土仏教

おはようございます。

法話を聞いた復習のために書いています。参考になるところがあれば幸いです。

 

仏教には聖道仏教と浄土仏教があります。

 聖道仏教は誰にでもキラリと光る仏性がある。ただ煩悩に覆われ見えなくなって

 いる。煩悩をなくせば仏性が表れ仏の悟りが得られるという教え。

 天台宗真言宗禅宗など

 

 浄土仏教はすべての人間は100%煩悩で出来ている。煩悩は減りも無くなりも

 しない。煩悩そのままで阿弥陀仏の本願に救われて仏の悟りが得られるという教え。

 浄土真宗

 

親鸞聖人は天台宗比叡山に9歳で入られ、29歳まで比叡山で修業を続けられましたが、とても修行を成就することはできないと下山されました。

 

下山される時、比叡山から琵琶湖をみて、以下の心境を綴られています。

「あの湖水のように、なぜ心が静まらないのか。思ってはならぬことが思えてくる。考えてはならぬことが浮かんでくる。恐ろしい心が噴き上がる。どうしてこんなに欲や怒りが逆巻くのか。あの月を見るように、なぜさとりの月が見れぬのか。みだらな雲がわき上がり、心の天をおおい隠す。こんな暗い心のままで、死んでいかねばならないのか。かかる一大事を持ちながら、どうして無駄な時を流せよう。はやく俗念を投げ捨てて、この大事を解決せねば」

 後生の一大事を阿弥陀仏の本願で解決していただかねばと思いますが、なかなかです。

諸行無常の世界

おはようございます。

残暑が厳しく、今日も暑くなりそうです。

昨日の聞法の復習をいたします。

 

諸行無常  この世で変わらないものは何一つない。

 

人は幸福を求めて生きています。

健康、お金、財産、地位名誉、家族妻子・・・

 

人間の得られる幸福はこれらのもので、過去の自分や他人と比較して幸福感を感じます。しかし無常の世界では変わらないものは何一つなく、「無くなりはしないだろうか」と常に不安を抱えています。これを相対の幸福と呼び、私たちはこの幸福しか知らない世界に住んでいます。

 

これらのものが無くなるのも辛いですが、無上の一番激しい時は、「死」を迎える時です。死は突然やって来ます。なぜなら私たちは

  明日も生きておれる、明日も、明日も・・・・

と永遠に生きられるように思っているからなのでしょう。

その「死」を迎えると、これまで自分が得たものはすべて自分から引き離され、苦しみます。何一つ持って行くことはできないからです。

 

そして死後はどこへ行くのやらまったくわかりません。人間の智慧では全くわかりません。わからないということは不安いっぱいです。

 

この100%確実な未来である「死」を見ないようにしていますが、その不安は心のどこかで感じているのではないかと思います。

死後は絶対に変わらない幸せ(絶対の幸福)になれるとわかっていれば、この世は無常の世界であっても楽しくたくましく幸せに生きて行けるのではないでしょうか?

 

仏法は阿弥陀仏に生きている間に救われて、今生で絶対の幸福にしてもらいなさいという教えと理解しました。