「20221025_信じなさいと言う教えではない」

おはようございます。


部分入れ歯を数年間やめていました。具合がすぐに悪くなるので。しかし噛み合わせが悪いと歪みが出ると言われ、今、作ってもらっています。


心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。


阿弥陀仏の本願を信じよう、これしかないのだから信じなければという気持ちにいつしかなっていました。


「信じる心も、祈る心も、念ずる心もない、座禅も、瞑想も真剣にできないのが、古今東西の人類であることを、弥陀はとうに見抜かれている」


「だから弥陀は、無条件の救いでなければならぬと思案し、条件なしの救いを誓われているのです。」


「聴」とは、後生の一大事解決するまでの道程を言う。
「弥陀の誓い」の本・末をきいて、深く納得すること。
真剣に聴こうとすると、必ず疑ったり、反発心が噴出します。


その疑惑心が、鮮やかに一念で晴れるまで、その誓いをきくことが「聴」。


と、書籍「歎異抄ってなんだろう」には書かれています。

 


「納得する」と「疑惑心が出る」という相反する言葉が出ています??
仏法を聴いて、「疑惑心」 ⇒ 「納得」 に少しずつ近づくということが後生の一大事解決に向かって進んでいるということなのでしょうか??

ありがとうございます。

 

 


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松井二郎さん、ありがとう!!

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ではまたね~!