2023/9/17 北陸報恩講

世の人は言う。「自分の命は自分で守りましょう」と。

防ぐことのできる命は守るべきと私も思います。命を長らえる生活習慣を持つことで。

食べること、身体を動かすこと、集中すること、慌てないこと・・・

 

世の政治、経済、医学、科学も命を長らえる取り組みをしています。

しかし命を守るといっても、いつまでも命を守れるものではありません。

100%やがて死は訪れます。しかし人はいつまでも生きていようと努めます。

そして明日も生きておれる、明日も、明日もといつまでも生きられると信じています。

頭ではいつか死ぬとわかっていても、まだまだ大丈夫と思って死から目を背けています。ごまかしています。

 

これは言うなれば「無駄な抵抗」をしているということ。

 

死んだらどこに行くのかわからない。わからないから不安で仕方ない。

だから死から目を背けるのでしょうか??

死ぬという確実な未来が不安であれば、現在が楽しめない、現在も不安である。その通りだと思います。

 

仏教は死後の行き先をハッキリさせて、現在から永遠の幸せになることを説かれています。これが人生の目的と教えていただいています。

 

死後の行き先がわからない = なぜ生きるのか(人生の目的)がわからない。

だからいつも不安、苦しみ、悩みが人生に付きまとう。

 

阿弥陀仏という仏様はこの苦しみを一念(アッという間もない時間)で救ってくださる。死んだあと極楽へ往くことがハッキリする。だからまさに今、臨終を迎えようとしている人にも阿弥陀仏の救いに遇う可能性は残されています。

 

齢をとると、自分の身体さえもどうにもならなくなり、生きがいや生きる目標などなくなります。しかし人生の目的である「死んで往く先が極楽往生間違いなし」とハッキリ知らされる一念は一瞬ですから、死ぬまで人生の目標は失うことはありません。

 

そういう身にしてくだされる阿弥陀仏の本願、その本願を伝えてくだされた方々のお力を讃嘆するのが正信偈を拝読するおつとめと教えていただきました。

 

「20221213_無明の闇」

おはようございます。


昨日はいつもより仕事がスムーズにいき、嬉しく思いました。


心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。


無明の闇について書きます。

お釈迦様のお言葉(大無量寿経
  従苦入苦 従冥入冥
  
  「苦(く)より苦(く)に入(い)り、冥(やみ)より冥(やみ)に入(い)る」
  
  今の苦より、死後の苦に入っていく。
  現在が闇の生活(自業苦)を送っている人は、死後も必ず闇のジゴク(地獄)へ
  堕ちて苦しまなければならない。


このお言葉を理解するには、現在の自業苦、つまり自分の苦しみを生む原因である自分の悪業(悪い行い)を知らなければなりません。


仏教でいう業(行い)は口、身、心の行いです。
中でも心の行いを重視します。心が口や身を動かしているからです。


世間で言うところの悪は、口や身で現れた行為だけを対象とし、心で思った悪意は実際に口や身で表現しない限りわからないので悪の対象となりません。


世間ではごまかせても真実の世界では心の思いが最も運命に影響するとのことです。


だから現在、楽しめることはあるけどその幸福が続かない。
その楽しみが終われば「何となく不安、なんとなく寂しい」という闇を抱えて生きている人は、自分の心での悪業を行っているからですよ。

それはあなただけではなく、人類すべての人がそうなんですよ。

と気付くことが必要ですよ と仏教では教えていると私は理解しています。
それに気づかないと自分の死後はこのままでは地獄往きとはとても思えません。


仏教ではこれを「無明の闇」といいます。
悪を悪と自分が認識するためには、「仏法が教える悪」を理解する必要があります。

 


私の言葉は正しくない可能性があります。ですので以下のサイトで学んでくださいね。

お釈迦様の真実の教えを以下の私が教えを受けているサイトでは正しく、わかりやすく教えています。
良ければ以下のサイト(無料版)を見てくださいね。

もっと学びたいと思えば私が受講している有料版に進んで、クラスメートになってください。お勧めです!!

松井二郎さん、いつもありがとうございます。
  ※今日の教えは松井さんからお話ではありません。教えそのものは同じですけどね

https://wrlighte.com/index.html

ではまたね~!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「20221211_#137 龍樹大士出於世」

おはようございます。


昨日の昼は日差しが強く暑いぐらいでしたが、今日は風がきつかったですね。
気温の変化に体を慣らさねばと思います。


心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。


お釈迦様没後700年に間違った教えを打ち破られ、正しい仏教を伝える龍樹菩薩が現れました。

この方がお釈迦様のご説法の真意は「阿弥陀仏の本願」であると教えられた最初の方です。


その頃のインドではすでに

  ・正しい仏教を伝える大乗仏教、大きな船で私もあなたも救われる自利利他の教え

  ・間違った仏教を伝える小乗仏教、小さくて私も乗れない船に自分だけが乗ろう
   とする我利我利の教え

に分かれていました。


龍樹菩薩が若いとき、ついさっきまで一緒に楽しくやっていた友達が、眼前で無残に殺されました。
自分は死んだらどうなるのだろうか?と、この一大事、解決する方法はないかと探し求めて、やがて仏法を求めるようになったのです。


龍樹菩薩はお釈迦様が説かれた内容を知るために、七千余巻を探しにお寺を廻りました。
その当時、七千余巻は一箇所にまとめて保管されていたのではなく、多くの寺に分散し保管されていたのです。


お寺でお経を見つけては読んでいき、お釈迦さまと同じ厳しい修行をして41段目(初地、初歓喜地)の悟りまでたどり着きました。この地球でお釈迦様以外でこの位置までたどり着いたのは、龍樹菩薩と無著菩薩(天親菩薩のお兄さん)だけです。


しかしそこから進むことがどうしてもできません。

  「こんな獰弱怯劣(ねいじゃくこれつ)な私はお釈迦様のようになれない」
   ここまで悟りを得た方には、自分の本当の姿がわかるのだそうです。


そこに龍樹菩薩のもとに大龍という人が現れ、

  「私の寺に大事に保管されているお経があるのだが、誰もその内容を理解できない。
   あなたに読んでもらい、その内容を教えていただけないだろうか?」

とそのお寺に案内されました。そのお寺の名前は「龍宮」。
そこで釈迦様が説かれた「大無量寿経」を見つけ、それを読むなり「阿弥陀仏の本願」のお救いに遭われたのです。


その後、龍樹菩薩は「弥陀の本願」を猛然とお伝え始められました。

 


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「20221210_聞き難し真実の仏教の教え」

おはようございます。


昨日、仕事の先輩から電話をいただき、お仕事を引き継がせてくださるとのこと。現在、仕事が少ないので本当にありがたいです。


心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。


真実の仏法を今、聞かせていただけるのは、本当にあり得ないことだと思います。


2600年前、当時のインドでお釈迦様の説法を聞いて、「これは後世の子孫に伝えなければ」と努力・協力した方々がいたからこそお経として記録されました。

インドの龍樹菩薩、天親菩薩がお釈迦様が説かれた真の目的を理解し、天親菩薩が浄土論を残してくだされました。

その当時のインド語(サンスクリット語)で書かれた経・論をすべて中国語に翻訳されなければ日本に仏教が正しく伝わることがありませんでした。

  当時の中国は国家プロジェクトとして翻訳作業をしました。その翻訳者たちを
  三蔵法師といいます。

そしてその七千余巻のお経を読んだほとんどの僧たちは、お釈迦様の教えは「お釈迦様と同じような修行をして救われる」というものであると聞き誤ってしまいました。

  聖道仏教(小乗仏教)と呼ばれるものです。
  人間の自力の心、自惚れ心がそうさせたのでしょうね。


そんな考えが大勢を占める中、お釈迦様の本当に言いたかったこと、結論部分に着目したた中国、日本の高僧たちによって、お釈迦様の教えは「阿弥陀仏の本願で他力に救われる」とお釈迦様の真意を理解されました。

  浄土仏教(大乗仏教)と呼ばれるものです。


その後、インド、中国は仏教を捨ててしまい、日本にだけ仏教が残りました。


日本では宗教は浄土仏教が大半を占めましたが、その浄土仏教派と称する団体が欲を満たすために真実を捻じ曲げた教えを弘めました。
それを蓮如上人が正し、真実の仏教を弘めてくだされたのですが・・・


現在、日本では以前と同じに戻り

   浄土仏教派の団体でも真実を捻じ曲げた教えをしているところが大半となる
   厳しい修行はしないけど自力本願の法華経を教える仏教団体
   西洋の宗教団体

が入り交ざっています。


その中、高森先生が真実の仏教を説いてくださる浄土真宗親鸞会を立ち上げてくださいました。そしてその教えを弘める善知識の方が増えてきました。

そして今生、現在の日本に生まれて、その真実の教えを伝える善知識の方にたまたま巡り合え、今、聞かせていただくとこができたのです。


あり得ないことですよね。仏法、聞き難しですよね。

 


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「20221201_因果の道理とは~前回の続き」

おはようございます。


昨日は早く夕食を抜きにしては早く床に就いて体を休めました。だいぶん良くなりました。


心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。


昨日の「因果の道理」の続きです。


人生の目的である「絶対の幸福にさせていただく」道程は因果の道理に従って進ませて頂くことが大切と教えています。

「因」と「縁」は両方とも等しく大事。こちらの方がより大事ということはありません。
だから「善い行い」と同時に「良縁を求める」ことが大切です。


人生の目的と表現しましたが、本当はこの世の人生の期間どころではないのです。

親鸞聖人は
  「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし」
と、『教行信証』に書いておられます。

  「多生にも値いがたく」

生⇒死⇒生⇒死⇒生⇒死⇒生⇒死⇒・・・・生⇒死⇒生
と繰り返してきた幾億兆年の間、求めても値えなかったことに値(あ)おうとしているのだということです。


仏法でいう善い行いとは
  1.聞法   2.五正行(おつとめ)  3.六度万行(親切など善い行い)
  です。番号は大事な順番です。
  
  これらを宿善といいます。宿世の善根で過去世の善い行いです。
  過去世といいましても現在世の過去の善い行いも含みます。
  ですから今からやる善い行いは宿善となります。
  

仏法でいう良い縁を求めるとは阿弥陀仏とのご縁(仏円)を求めるということです。
  1.聞法で阿弥陀仏の本願のお話を聞くことがご縁を求めていることになります。
  2.毎日のおつとめもそれに当たります。
  3.善知識(仏教を正しく伝えてくださる方)、同行(共に仏教を求める法友)
    とのご縁も大事とされます。
    善知識、同行に近づこうとしないのは救われない人の欠点とも言われていました


共に人生の目的、いやいや多生の目的が得られるよう求めていきましょう。

お教え、ありがとうございます。

 

 

 

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「20221130_因果の道理とは~前回の続き」

おはようございます。


今日は体がすぐれず、どうしようか考えましたが聞法会場に行くことを止めてしまいました。


心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。


昨日の「因果の道理」の続きです。


以下の例の場合、仏教で教える「自因自果」とはいえないなおではないか??
と世間では考えます。


「妻は大変善い人であるが、その夫が酒飲みギャンブル好きで大変な苦労をしている。」
というケースです。


この妻が不幸なのは、その夫のせいではないか?
悪い夫が原因で、妻が不幸という運命を負っているのではないか?
  他因自果ではないか?
  
このような場合でも仏教は、自因自果と説明します。

妻はそもそも多くの男性がいるのにもかかわらず、その悪い夫を選んで結婚をしてしまったからこのような不幸な目にあっているのである。

妻の過去の行為(因)が、悪い夫と結婚するという縁を呼び込んだのだ。
  因:妻の過去の行為。この場合は悪業。
  縁:悪い夫
  果:苦労する生活

妻が悪い夫を好きになってしまったのは理屈では説明できません。なぜかその人に魅かれたから好きになったのです。それはその夫を好きになる業因をもっていたからと仏教では教えます。

そして因と縁とが離れると、その形を留めることはないといいます。

 日本語でも善い人と結婚すると「よい縁」、悪い人と結婚すると「悪い縁}と表現します。
 そして離婚することを「離縁」といいます。なるほどねぇ・・「縁」という言葉を使っていますね。


この因果の道理は現在世だけに止まりません。
過去世、現在世、未来世と脈々と続く道理とお釈迦様は教えてくだされています。

これを三世因果といいます。
  「過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。
   未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ。」

(意味)
自分は過去世にどのような行いをしたかを知りたければ、現在の運命をみなさい
自分の未来世の運命を知りたければ、現在の行為をみなさい。


良い未来を求めるなら、
   もう過去世の行為は変えることができません。
   であれば、今から善業を心がけなさいよ。
   
   善い縁を求めなさいよ。
   過去の悪い因があっても、善い縁を求めて行けば善い果となるのだよ。
   
   善い因と善い縁を求めなさいよ。
と教えています。


人間の判断では本当にそれが善い縁か、善い縁かはわかりません。
では、どうすればよいか??という問いに

  そのために仏教を聞くのである
  
と教えていただきました。

お教え、ありがとうございます。

 

 

 

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「20221129_因果の道理とは」

おはようございます。


昨日は仕事仲間と愛宕山方面へのハイキングの後みんなでお店に入り、地鶏の炊きをいただきました。料理も良かったし、何よりも仲間で食べるのは格別です。


心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。


「因果の道理」は仏法の根幹、本といわれます。

まいたタネは必ず生える
まかぬタネは絶対に生えぬ

結果(運命)には必ず原因がある
原因のない結果(運命)は万にひとつも、億にひとつも絶対にありえない
偶然はない、すべて必然と教えています。

と教えています。


それに対して世間でいう運命とは、人間にはどうしようもないこと、原因などないと思い、運命がおこるのは偶然だと思っています。
あるいは、神が与えたもの、先祖、きつね、タヌキの祟りしか考えられないとお祓いをしてもらったりします。


そう言いながらその一方、科学とか医学は
  「結果には必ず原因がある」という前提で発展してきました。
  「原因がわからないということがあっても、原因がないということはあり得ない」
という立場です。これは仏教と同じ考え方です。


では仏法は運命をどう教えているのか?
  善因善果  善い運命は自分が行った善い行為が原因で起きる
  悪因悪果  悪い運命は自分が行った悪い行為が原因で起きる
  自因自果 = 自業自得  
善い運命も悪い運命も自分のやった行い(業)によって、自分の運命を得る。


世間では善い運命のときだけ、それは自分の行いが善かったからだと思い、
悪い運命がおきると、それは自分の責任とは思えない。
  あの人がこんなことをしたから、私が不幸な目にあったのだ。あの人のせいだ
  
  と他因自果(仏教ではこのような言葉はありませんが・・・)と思ってしまう。


実は因果の道理とは、正確には因縁果の道理であり、因と縁をまとめて因果の道理といわれているのです。(例としてお米という果ができる因、縁)

  因ーーーーー縁   因:タネ、原因、自分の行為(モミだね)
    |      縁:因が果となるのを助けるもの(土、空気、太陽)
    |      果:結果、運命、自分に起こった出来事(米)
    果

  因と縁がそろわなければ、果とならない
  
  果を生むのに因と縁のどちらが大切か?
    その重みに違いはない。同じ重み。両方共に大事。平等に大事。

と教えていただきました。

お教え、ありがとうございます。

 

 

 

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