「#38 仏教の極み 本願成就文〈6〉南無阿弥陀仏とは ~ 宇宙一のプレゼント」の動画を復習しました

おはようございます。

お勤めを集中してやろうと思うのですが、なぜが今、考えなくても良いことが心に浮かんできます。

 

心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。

 

「#38 仏教の極み 本願成就文〈6〉南無阿弥陀仏とは ~ 宇宙一のプレゼント」の動画を再度みました。

聞其名号の「聞」とは、名号を受け取ること、そしてその名号が自分のものになったことをいいます。

聞其名号の「名号」 =「南無阿弥陀仏」とは?

  阿弥陀仏はこの名号を私に与えて助けようとしている。
  親鸞聖人はこれをもらって、宝の大海に飛び込んだものだったと仰って
  いる。
  
中国ではだれもがその名を知っている善導大師の解説
南無阿弥陀仏」は、「南無」と「阿弥陀仏」の二つの言葉に分けることができる。
  「南無というは帰命 またこれ発願廻向の義なり
   阿弥陀仏というは すなわちその行」」

  「南無」・・・インドの言葉。中国では帰命。すべて阿弥陀仏の本願のお力
     だけで助かったという意。
     発願は願いを起こすこと。廻向は与えるという意。
     救われたいという願いも阿弥陀仏から与えられたものだった。
     救われたいと願うこともその願いをかなえて救われることも
     すべて阿弥陀仏から与えらるものである。
       他力とは如来の本願力なり
       自力はこの反対で自分の力で助かろうとすること
     すなわち他力ですくわれるのであり、自分の力は何一つ役に立た
     なかったということ。
       
  「阿弥陀仏」・・・行とは善の意。阿弥陀仏の善がすべて含まれている。
     その善を頂くと自分の善になっちゃう。もらったら自分のもの。
     私が煩悩具足、煩悩しかない存在から、その煩悩は無くならない
     まま阿弥陀仏の善と一体となる。
       今は絶対の幸福。死んだら極楽浄土間違いなしの身になれる
       
蓮如上人のお言葉
  一切の聖教というも ただ南無阿弥陀仏の六字を 信ぜせんがためなり
     「信」とは、阿弥陀仏の本願を頂き、その身になったこと

聞其名号の「其」とは、
  お経には本願成就文の言葉の前にもこの名号の解説がある。その解説
  のこと。
    すべての仏がこの名号は凄い。私たちには到底、作ることはできな
    い。凄すぎる。さすが阿弥陀仏は私たちの先生だと褒めたたえてい
    る。
  と、解説されています。

南無阿弥陀仏という言葉は、
  名号 ⇒ 信心 ⇒ 念仏
と私の状態により意味が変化するとのこと
  名号・・・阿弥陀仏の本願を受け取る前
  信心・・・受け取ってその身になれた後
  念仏・・・その身になれたことの感謝の言葉
   (感謝の言葉まで用意してくださっている。煩悩具足で感謝などしな
   い者だと阿弥陀仏は見抜いている。)

阿弥陀仏の本願を頂くと
  煩悩具足 ⇒ 至徳具足 となる。
  至徳具足になると 転悪成善 となるそうです。
  
  「円融至徳の嘉号は  悪を転じて得を成す正智
  
  これまでは煩悩で悪しかつくれず苦しみしかなかった
    ⇒ その苦しみが苦しみのまま全部幸せに転じ変わる
    
これ、理解できません???
なぜ苦しみが苦しみのまま全部幸せにかわるのか??
矛盾していると思いますので・・・

 

 


その辺を以下の私が教えを受けているサイトではわかりやすく教えています。
良ければ以下の私が学んでいるサイトを見てくださいね。
松井二郎さん、ありがとう!!

https://wrlighte.com/index.html

ではまたね~!