「#39 仏教の極み 本願成就文〈7〉信心決定とは」の動画を復習しました

おはようございます。

毎日、何となく不安な気持ちでいます。ホッとする時は空腹で食事する時かなぁという感じです。

心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。

「#39 仏教の極み 本願成就文〈7〉信心決定とは」の動画を再度みました。


南無阿弥陀仏」を表現する言葉は
  名号 ⇒ 信心 ⇒ 念仏
とその人の状態で変化します。

名号・・・阿弥陀仏からまだ「南無阿弥陀仏」という善の塊を受け取っていない
   状態の者にとっての「南無阿弥陀仏
   
信心・・・阿弥陀仏から受け取った状態の者にとっての「南無阿弥陀仏

念仏・・・阿弥陀仏から受け取って本当にこの世もあの世も絶対の幸福になれた   ことに対しての阿弥陀仏への感謝の言葉の「南無阿弥陀仏
     
   名号と一体となっていない人も「南無阿弥陀仏」と唱えるので、
   「自力の念仏」と「他力の念仏」に分けている。
   
   「自力の念仏」 後生の一大事を自分で解決しようとして唱える念仏
   「他力の念仏」 名号と一体となった人が感謝で唱える念仏


信心したらどうなるのか?
「往生一定」になる。
   「往」は阿弥陀仏極楽往生に往くこと
   「生」は2つあります。
     ①この世では悟りの0段から52段の手前の51段まで名号を受け取る
     ことで一気に飛躍して悟りで51段まで登った人に匹敵する身とな
     る。悟りを啓いた訳ではないので匹敵した身。そして絶対の幸福
     にこの世を生かされていく。
     ②死んだら自動的に52段に上がり、悟りを啓き仏として阿弥陀仏
     の浄土に生まれる。
   「一定」 そうなることが決まっている
   
「往生一定」を「信心決定(けつじょう)」とも
       「信心獲得(ぎゃくとく)」ともいう
      
仏の目で見ると、人間は煩悩具足で真の心が一つもない存在である。
  その不実な者には真実が見れない。
  いくら自力で頑張っても、真の教えが理解できない
そのような者だから、名号を阿弥陀仏から受け取るしか救われない。

 

次回は「他力の念仏」を唱える身となればどうなるのかの説明があるようです。

 

 

 

その辺を以下の私が教えを受けているサイトではわかりやすく教えています。
良ければ以下の私が学んでいるサイトを見てくださいね。
松井二郎さん、ありがとう!!

https://wrlighte.com/index.html

ではまたね~!