「#34 仏教の極み 本願成就文〈2〉諸有衆生」の動画を再度みました

おはようございます。


家内の仕事の知り合いの方から電動自転車をいただきました。そして今まで使っていた自転車を近場の自転車屋さんに処分依頼できました。よかったぁ~。


心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。


「#34 仏教の極み 本願成就文〈2〉諸有衆生」の動画を再度みました。
(現時点、#101まで一通りみた状態です)


本願成就文の「聞其名号」の「聞」の意味を#101まで見た時点で考えました。

仏教では、
  人間のお話を理解するのは「聴」できいて理解する。
  「聞」できくのではない。
  
  「聞」は阿弥陀仏が私に浴びせ続けている名号という「善の塊」を
  阿弥陀仏から受け取ることだけを意味するのではないかと思いました。
  
  
阿弥陀仏は名号である「善の塊」を受取りなさいと、大声で私に呼びかけ続けてくださっている。しかし私には全く「聞」こえない。

「聞」く心構えができていないから。

宿善が厚くないから阿弥陀仏の放ってくださっている光明を避けようと逃げ回っている状態ではないか。

  「仏法は聴聞に極まる」


仏法を聴き続けることによって、
  おつとめの実践に身が入り
  六度万行の実践に身が入る
  
  
そうすることで、阿弥陀仏の光明に強く当たることができるようになる
(光明でわたしの自力では善を身につけることはできないと心身全体で魂で理解できるというからかしら・・・??自分で書いていながら意味不明)


そうなって初めて(阿弥陀仏の善の塊である)「名号」を聞けるようになるのかしら・・・?


この「聞」というのは、阿弥陀仏と私との間で「以心伝心」できたとハッキリわかることかしら・・・?

そのように考えました。本当のことはわかりません。

講義、ありがとうございました。

 

 

 

 

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松井二郎さん、ありがとう!!

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ではまたね~!