「#35 仏教の極み 本願成就文〈3〉聞其名号」の動画を復習しました

おはようございます。

悪をすることを少なくしなければと思いますが、なかなか煩悩を抑えることができません。

 

心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。

 

「#35 仏教の極み 本願成就文〈3〉聞其名号」の動画を再度みました。

本願成就文 これを私たち人間に教えることがお釈迦様の目的といわれるものです。
その本願成就文の中でも大事な言葉が「聞其名号」です。阿弥陀仏の本願を受け取るためには「聞其名号」だよとの教えの言葉ですから。

「仏法は聴聞に極まる」といわれます。
  「聴」は言葉を耳で聴いて頭で理解すること
  では「聞」とは、
  
  「聞即信」 聞したと同時に信楽の身(絶対の幸福)になる。
  
親鸞聖人の主著「教行信証」には、以下の言葉で「聞」を説明されています。
  聞と言うは衆生
  仏願の生起本末を聞きて
  疑心有ること無し
  これを聞と曰うなり
  
今生も後生も絶対の幸福にしてやるという阿弥陀仏の本願を疑っている心が全くなくなることを「聞」という。

仏法でいう「信心」は信じているという事ではない。
     「信心」とは、実際に絶対の幸福になったことをいうそうです。
     
  信じている = 疑いの心を抑えていること = 疑っていること
  疑いようがないことは信じているとは言わない。知っているという。
  言われてみればその通りですね。
  
「聴」を重ねても「聞」にはならないとのこと。
  「聞」は疑いのない心になった状態をいう??
  疑いの心を無くすには実際にその身にならないとそうならない??
  
  では「聞」=絶対の幸福になったことをいうのか??
  「聞即信」といわれるが、なぜ「聞」と「信」の2つの言葉に分けて
  いるのだろうか?
  2つの言葉に分ける必要があるのだろうか?
  
私はそこのところに疑問がわきました。

引き続き以降の動画を見ていきたいと思います。

 

 

その辺を以下の私が教えを受けているサイトではわかりやすく教えています。
良ければ以下の私が学んでいるサイトを見てくださいね。
松井二郎さん、ありがよう!!

https://wrlighte.com/index.html

ではまたね~!