「#40 仏教の極み 本願成就文〈8〉無碍の一道とは」の動画を復習しました
おはようございます。
畑に行くことから遠ざかっていましたが、昨日、ほうれん草と小松菜の種を撒きに行ってきました。植物や土を触ると心が安らぐような気がしました。畑作業がプレッシャーになっていましたのですが、いいもんだなぁと思いました。
心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。
「#40 仏教の極み 本願成就文〈8〉無碍の一道とは」の動画を再度みました。
信心決定すると、
「苦しみが苦しみのまま苦しみでなくなる」
とのことですが、どういうこと???
まず、信心決定しても苦しみは減りもしないし、無くなりもしない。
煩悩100%の自分はそのまま。自分の煩悩は減りも無くなりもしないから。
悪因悪果 自因自果
ですから。
しかしその苦しみが苦しみのまま苦しみでなくなる。
信心決定したことで阿弥陀仏の善を頂いたことで、「極楽往生間違いなし」とハッキリしたため。苦しみはやってくるが、その苦しみが「極楽往生間違いなし」の妨げにはならなくなる。
つまりこういうこと。
信心決定するまでは、死んだらどうなるのか??ということを
人生順風満帆の時は、
自分は良いこともしているのだから、まぁ、最低でも人間に生まれ
替われるだろう。ひょっとして極楽に行けるかもしれない。
と楽観的に思ってしまいがち
そして人生逆境の時、
こんな自分は死んだら極楽往生できそうもないなぁ。人間に生まれ
変わるとこさえ無理だろう。
と悲観的に思ってしまいがち
このように自分の状態によって、死んだらどうなるのかを思う心がコロコロと変わるが、信心決定すると「極楽往生間違いなし」がハッキリしているので、迷うことがなくなる。無明の闇が晴れたということで
信心決定するとは?その身となった親鸞聖人は、このように仰っています。
「罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし」
罪障 = 煩悩 功徳 = 幸せ 体 = その元
こおり = さわり、煩悩、苦しみの例え 水 = 徳、幸せの例え
どういうこと???
信心決定すると、
自分は「地獄一定、地獄行き間違いなし」
ということがハッキリする。それと同時に
阿弥陀仏の本願によって「極楽一定、極楽行き間違いなし」
と自分は阿弥陀仏の本願によって救われたということもハッキリする。
「地獄行き間違いなし」とハッキリするのは、これまで見えていなかった自分の極悪が、阿弥陀仏によってはっきりと知らされるということ。これまで自分は少しぐらいは善もしているとうぬぼれていたが、お釈迦様が言われた通り、極悪人だったとハッキリする。
そんな極悪人は地獄行き間違いなしであるところを、阿弥陀仏の本願によって、阿弥陀仏の善を丸ごといただくことによって、極楽行き間違いなしの身にしてくださったとハッキリとわかる。
そうなると、
煩悩で作った苦しみが、そんな私でも極楽にいかしてくださる喜びとなる。
その煩悩が大きければおおきい程、喜びは大きくなる。
煩悩が(極楽に行ける)この身になった幸せの元になる。
最後になってしまいましたが、「無碍の一道」とは、
「碍」 = さわり、障害、困難、妨げ、苦しみ
苦しみが無くなる訳でもなく、減る訳でもない
しかしその苦しみが苦しみのまま苦しみでなくなる
ということで、前に述べたとおりです。
以上のように理解しました。
その辺を以下の私が教えを受けているサイトではわかりやすく教えています。
良ければ以下の私が学んでいるサイトを見てくださいね。
松井二郎さん、ありがとう!!
https://wrlighte.com/index.html
ではまたね~!