#42[質問座談会] 生るべからざるものを生れさせたればこそ」の動画を復習しました
おはようございます。
昨日は所属している歩こう会のハイキングに行ってきました。しんどくなって途中で脱落しました。皆さん、私より年配なのに、情けないなぁと思いました。
心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。
「#42[質問座談会] 生るべからざるものを生れさせたればこそ」の動画を再度みました。
「正見」と「悪見」の違いを室町時代の蓮如上人と一休和尚とのお話で解説されていました。
「正見」とは、曲がった松の木を見て、「ああ、曲がった松の木だ
なぁ」と真実のままで認識すること
「悪見」とは、曲がった松の木を見て、何とかまっすぶに見ようとする
こと。
私たちは仏さまの目から見れば、悪人である。それを人間は煩悩によってこの悪人を善人として見ようとし、善人であるとうぬぼれています。
だから全力で善をして、その善は法鏡に映せば悪が混ざっていないかを見つめて正見していくことが必要です。正見しないと阿弥陀仏が言われている「そんな極悪人を救う」という本願が理解できない。
箱と蓋が合わない
ことになります。
阿弥陀仏の本願に救われるには
無常感 今まさに死んでいこうとしている身であること
罪悪感 仏様の目(法鏡)で見ると、ただの悪人何だなぁ
この2つが必要です。
阿弥陀仏の本願はどのような者を救おうとしているのか?
「若不生者」 すべての人を絶対に救う
「唯除五逆 誹謗正法」 五逆罪、法謗罪の者は除く
すべての人を救うと言いながら、五逆罪、法謗罪の者は除くと言われている
五逆罪、法謗罪はすべての人が持っている罪です。これを除くと言われると、すべての人は救われないことになります。
「絶対に救われない自分」と「そんな自分を阿弥陀仏は救ってくださった」
という矛盾した状態が生きている間、ずーっと続く。
この本願の不思議を覚如上人は
「生まるべからざるものを生れさせたればこそ」
「超世の悲願」
「横超の直道」
と言われています。
自分は救われたとしてお世話になった親たちは救うことはできないのか?
親鸞聖人は以下のように言われています。
まず、自分が救われなさい。
あなたが死んで極楽浄土へ行き仏となると、仏様の能力が身に付く。
その神通方便で親たちを救うことができるのだから。
私がこの教えを聞くことができたのも、どなたの救いでこのような縁をいただいたのでしょう。親たちのためにもまず、自分が救われなければなりませんね。
その辺を以下の私が教えを受けているサイトではわかりやすく教えています。
良ければ以下の私が学んでいるサイトを見てくださいね。
松井二郎さん、ありがとう!!
https://wrlighte.com/index.html
ではまたね~!