「#37 仏教の極み 本願成就文〈5〉その名号を聞け! ~ 宝の海をまるもらい」の動画を再度みました

おはようございます。


この今の私のだらけた生活を正さねばならない。六度万行の精進、忍辱ができていないと思う毎日です。


心穏やかに生きたいと思っていたら、
ひょんなことから仏教を学ぶことになりました。


「#37 仏教の極み 本願成就文〈5〉その名号を聞け! ~ 宝の海をまるもらい」の動画を再度みました。
(現時点、#101まで視聴済み)


親鸞聖人の教行信証での「聞」の解説文

  聞と言うは衆生
  仏願の生起本末を聞きて
  疑心有ること無し
  これを聞と曰うなり


「生起」
  人間、生まれて全員、「無明業障の恐ろしき病」に罹っている。
  この病が恐ろしいと言われるのは、その病を患っている私に自覚症状を
  まったく感じていないからです。
  
  真実の私が見えていないから。
  無明の闇の暗い苦しみの状態でする行い(業)は、悪い結果しか生むこ
  とができない。本当の安心満足のない状態には絶対になれない。
  
  煩悩具足だから悪しかできない。永遠に苦しみの輪廻転生を繰り返して
  いる衆生
  
  悪しかないので救いようがない衆生
  
  これを何としてもこの阿弥陀仏が必ず救ってやるぞと一人、立ち上がっ
  てくださり、五劫の思惟をされて「南無阿弥陀仏」の名号を与えて
  救うことという方法を考え出された。
  
  
「本末」
  「方法を考えだされた」とは、設計図が完成したという意味であり、そ
  の設計図通りに「南無阿弥陀仏」の名号を作らなければならない。
  
  そして兆載永劫の長き時間をかけた修行をされ、名号を完成された。
  
  この名号という薬を与えれば衆生を救える。
  この名号を「因」とすれば無明の闇が晴れるという「果」を得ることが
  できる。
  
  しかし「因」を受け取るには「縁」が必要。
  「縁なき衆生は度し難し」
  「縁」を与えやらねば、せっかく作った名号という薬で
  救うことができない。
  
  なんと阿弥陀仏は「縁」までお考え下さった!!
  
  それが、19願の「修諸功徳の願」、20願の「植諸徳本の願」
  であると私は思いました。


講義、ありがとうございました。

 

 

 

 

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